地名を歩く

日本、特に埼玉県の地名等について書いています。

「勝楽寺村勝楽寺」『武蔵野話』に着色する

I.始めに
前回の記事でほんの少しだけ紹介した所沢市大字勝楽寺(旧入間郡勝楽寺村)ですが、実は狭山湖の造成によってその多くは見えなくなってしまっています。いくつか写真は本などで見ることも出来ますが、やはり絵もいくつか残っています。その内の一つに『武蔵野話』の「勝楽寺村勝楽寺」があります。しかしながら、勿論着色はされていません。なので、私がその当時を想像しながらその絵
に着色しようと思う。

では早速その絵を見てみる(下図)。

f:id:satoshin_chimei:20201127163123j:plain
「勝楽寺村勝楽寺」『武蔵野話』より作成

II.実験方法
今回の実験で行う着色について、色の推測は『迅速測図』、現在の大字勝楽寺の様子、大字山口に移された仏蔵院勝楽寺、などを参考にする。着色方法は色鉛筆を用いる。また、コロナウィルス予防の為現地には直接赴かず全てGoogle earthを用いて行うことにする。

III.色の推測
まずは、この絵が一体どの辺りかどの方角を描いたものなのかについてである。勝楽寺が描かれているのでまずはそれが大きなヒントと言えよう。なので、まず勝楽寺の位置を確認する。「勝楽寺の里」『東大和の歴史』を確認し、その後、農研機構農業環境変動研究センターから確認すると確かにそこに寺院のマークがある。

f:id:satoshin_chimei:20201127210538j:plain
出典:農研機構農業環境変動研究センター

恐らくこの辺りだろう。方角はさほど難しくなく、「勝楽寺村勝楽寺」の絵の奥側に山が見え手前側に水田の様なものがあるので、恐らく南東側(画像左下側)からの景色だろう。
次に後ろ側の山の色であるが、現在も画像の付近には雑木林が存在しているので、その色を参考にすることにする(Google Earth)。また、描かれている勝楽寺についても現在大字山口にある仏蔵院勝楽寺の色を参考にした。その他は適当に仮定し、着色する。
IV.結果

f:id:satoshin_chimei:20201205124415j:plain
着色したもの

良い景色です。

V.参考文献
農研機構農業環境変動研究センター。
habs.dc.affrc.go.jp


斎藤鶴磯、1815、『武蔵野話』。
dl.ndl.go.jp


安島、2019、「勝楽寺の里」『東大和の歴史』、https://higashiyamato.net/higashiyamatonorekishi/2019/08/19/syourakujinosato/
higashiyamato.net

所沢市大字勝楽寺と町田市の地名

東京都には町田市という市が、そして埼玉県の所沢市には大字勝楽寺という大字があります。恐らく読書の多くは前者は知っているが後者は知らないという方がいるだろうと思う。これら2つの小字や小地名を見比べてみるとほんの少し面白いことがある。例えば以下の様なもの(私のTwitterより)がある。

 

そこで、『所沢市史 地誌』、『町田の地名のいわれ』などから幾つか拾い上げ類似していそうなものを挙げることにする。しかし今回の記事では一切の考察、及びそれに類するものを行わないので参考程度にしてほしい。

大字勝楽寺周辺 町田市
大ヌカリ 大糠利(相原)
川島 川島(相原)
馬場 馬場(小山)
七国 七国(相原)
狼久保池(東大和市芋窪) 大犬久保(小野路)
奈良橋(東大和市奈良橋) 奈良ばし(小野路)
堂地入 堂場入(小野路)
ノリコシ 上・下打越(大蔵)
堂入 堂谷(下小山田)
滝沢池(東大和市芋窪) 滝ノ沢(木曽)
源太谷池(東大和市芋窪) 源太ヶ谷(大蔵)
細入(所沢市大字上山口) 細谷(小野路)
日カゲ 日影(図師)
勝楽寺 勝楽寺(原町田、寺院)
高橋(所沢市大字上山口、交差点名) 高橋(大蔵)
堤した 下堤(小野路)
中かいと 中ヶ谷戸(相原)

(今後変更の可能性あり)

 

上の表で色々と類似していそうなものを拾ってきたが、実際の所比較対象の規模がかなり違うし、地名として多く使われているものも多い。また、似ているものばかりでもない。なのでこの記事を見て「こんなに関係性があるのか」とか「何か面白い共通点があるのだろう」と思うのは安易である。なので何かの参考程度にしてほしい。

 

参考文献

所沢市史 地誌』(所沢市史編さん委員会、1980)

 

所沢市史 地誌 付図』(所沢市史編さん委員会、1980)

 

『検地帳集成Ⅰ 所沢市史調査資料別集2』(所沢市史編さん室、1980)

 

『町田の地名のいわれ』(町田市立図書館、1993)

https://www.library.city.machida.tokyo.jp/img/bottom/16d3238ac4642ea1f0c2dfc7b4b72c8e_1.pdf

 

「石川の里(東大和市)」『東大和の歴史』(2020.11.26閲覧)

higashiyamato.net

小字の始めの一文字、乃至二文字は何を表す場合が多いか

 

I.はじめに

 私は『所沢市史 地誌 付図』や『八束町誌』、そしてネット上などで小字地図を読んでいて、小字の始めの一文字、乃至二文字は「宮」、「天神」、「舞台」などその場所や周辺にあった特徴的な人口物や「東」、「下」など方角を表すもの、そして「道」、「往還」や「片山(道付)」、「東京(道南)」などその場所を通っていた道に関するものなどがあると思った。そして、小字の一文字目、初めの二文字は何を表しているのか、どのような意味がある場合があるのか、ということに興味を持ち、本記事を書くに至った。

II.一見して多そうなもの

 ここでは一見して多そうなものを例を挙げながら紹介していく。しかし、この時点では少しも統計をとったりなどしていないことに注意されたい。

 また、ここで紹介する小字の例は『所沢市史 地誌』、『東大和市史資料編』、「

羽生市の大字及び字名」から拾ったものである。

 1.方角に関係するもの

東大和市芋窪字上中原、下中原

東大和市芋窪東谷ツ 、中谷ツ、西谷ツ

羽生市大字上岩瀬字上悪土、下悪土

羽生市大字下村君字東田、西田

羽生市大字神戸字前、后

所沢市大字下新井字向原

所沢市大字下新井字南原、北原

など

 2.その場所、あるいは周辺の道に関係、付随するもの

東大和市奈良橋字青梅道

東大和市蔵敷字八王子道

羽生市大字小松字往還西

羽生市大字上羽生字小松道上、小松道下

所沢市大字下安松字東京道南

所沢市大字北秋津字牛沼道

など

 

 3.その場所、あるいは周辺の人工物に関係するもの

東大和市蔵敷字弁天前、弁天後

東大和市奈良橋字八幡谷戸

東大和市奈良橋字諏訪前

羽生市大字下岩瀬字念仏堂

羽生市大字桑崎字稲荷宮

羽生市大字名字屋敷裏

所沢市大字久米字稲荷林

所沢市大字北秋津字寺後

など

 4.その場所の地形などを表したもの

東大和市蔵敷字久保

東大和市蔵敷字塚前

羽生市大字下羽生字谷

羽生市大字尾崎字河原前

所沢市大字北秋津字屼西久保

所沢市大字下新井字カサノ上

など

 一見して多そうなものは以上のようなものである。では次節は実際に簡単な統計を取ってみる。

III.小字の始めの一文字、乃至二文字は何を表す場合が多いか

 本節では実際に簡単な統計をとり、調べてみる。今回統計をとったものは羽生市大字上新郷、喜右エ門新田、稲子、弥勒東大和市高木、奈良橋、蔵敷、芋窪、所沢市大字所沢、大字三ヶ島、大字久米である。(計302小字)しかし、関東地方埼玉県周辺に偏ってしまっていることに注意が必要である。

実際に調べると、方角や場所に関係すると思われるものが85、地形やその土地の特徴に関係すると思われるものが53、人工物に関係すると思われるものが49、順番に関連すると思われるものが23、道に関連すると思われるものが22、近辺の地名に関連すると思われるものが17、植物に関連すると思われるものが11、大きさなど,数字が入るもの(六反田や一本木などその場所のにあるものの大きさや個数)が5、生物に関連すると思われるものが3、人名に関連すると思われるものが2、残りは分からなかった、あるいは判読不能であったので未分類とした。

f:id:satoshin_chimei:20201026164045p:plain

小字の始めの一、二文字目による分類

また、もし、円グラフじゃないと困っちゃう、なんて人がいるかもしれないので円グラフのものも用意した。(下図)

f:id:satoshin_chimei:20201026164636p:plain

小字の始めの一、二文字目による分類(円グラフver.)


 IV.結果(と考察)

 今回の(やや雑な)統計では、少なくとも調べた箇所付近の小字は多くが方角や場所に関連するもの、その地形特徴に関連するもの、そして人工物(神社、寺院など)に関連するものが多くを占めていると推測でき、そして特に方角や場所に関連するものが多かった。これは付近の主要な地名にあやかったり、地域を分割する際に方角を冠して分けたということが考えられる。他方で生物や人名に関連するものはあまり多くはなかった。これは相当特徴的だったりしなければ小字名として残りづらいからだと考えられる。

V.最後に

 私の今回調べたものかなり雑だと思われるし、かつ適当と思う人もいるだろう。別に私自身も勿論その自覚はある。しかし、本記事を見た人に何かの参考にしてもらえればよいと思っています。(そもそも参考になるか分かりませんが)

 

参考文献

所沢市史 地誌』(所沢市史編さん委員会、1980)

 

東大和市史資料編9』( 東大和市史編さん委員会、1999)

 

羽生市の大字及び字名」

www.city.hanyu.lg.jp

ちょっと変わった小字

 ネット上で小字を調べると、現存している、またはかつてあった小字と漢字や読みが似ているが違う小字が案外見つかる。それは新設された小字でありちょっと古い資料には載っていない、という場合もあるが、誤植の可能性が高いというのも多い。今回はそういう小字達をいくつか紹介しようと思う。

1.荻原

これは【マーケットピア】ドン・キホーテ 東所沢店(所沢市上安松)に見える小字です。一見おかしくは見えないかもしれませんが、『所沢市史 地誌』などにも見えません。そこで大字上安松1237番地から『所沢市史 地誌』で調べてみました。するとここは字「茨原(ばらはら)」に属していました。ここで「茨」字と「荻」字を比べてみると、ちょっと似てますね。もしかしたら、茨と荻の漢字を見間違えたのかもしれませんね。

2.下原元

これは【陸運事務所所在地一覧】に見える小字です。これは見た瞬間にピンと来ましたが一応『所沢市史 地誌』で調べてみました。するとやはり字「下原兀(しもはらはけ)」の間違いの可能性があります。恐らく、「兀」字に見慣れていない、もしくは何らかの影響で見間違えてこの様に打ってしまったものと考えられます。

3.日原

これはケアプランセンターケア・リンク東所沢(所沢市) の基本情報・評判・採用-居宅介護支援| かいごDBに見える小字です。こちらも先述の「荻原」同様一見おかしくはないですが、『所沢市史 地誌』などにも記載はありませんでした。しかし、そのかわり字「日向(ひなた)」と字「西原(にしはら)」の二つの小字が見えました。『所沢市史 地誌』に書いてある番地とこのリンクの番地を比較すると恐らく字「西原」の間違いだということが分かります。では何故このような間違いが発生してしまったのでしょうか。私が考えるに次の二つが考えられます。

      1. 「にしはら」と打つべき個所を誤って「にはら」もしくはこの様な文字列と打ってしまって「日原」と変換されてしまった。
      2. 字「日向」と字「西原」とを混同して字「日原」と打ってしまった。

4.毘沙門

これはアンダンテ(所沢駅 / 所沢市旭町)の賃貸[賃貸マンション・アパート]アパート【賃貸スモッカ】対象者全員に家賃1か月分キャッシュバック!などに見える小字で、同様のサイトで大字久米にも同じ小字が見えます(参考文献参照)。この小字は『所沢市史 地誌』などにも一切記載がなく、このWebサイトにも番地などが一切書いてなく、調べても番地や場所がよくわからなかったのでどの小字と間違えているのか、もしくはこういう小字が実際に存在するのかもよくわかりません。それに大字久米、大字北秋津のどちらにも毘沙門天に関係する寺院は知らないし(知っていたら教えてください)、発音的に近い小字もなさそうなのでよくわかりません。

5.明院

これはやまだくんのせかい: 埼玉伝説 メモに見える小字です。このWebサイトの文脈、及び小字の名前からして大字北秋津にある寺院、淵上山持明院と関係がありそうですが、『所沢市史 地誌』にも本小字はなく、持明院は先述の通り大字久米にはないのでよくわかりません。恐らく何らかの本、ないしはWebサイトを参考にしたものと思われますが、まったくわかりません。何か情報をお持ちの人は教えてください。

 

以上5つほど見てきましたが、如何でしたか。もし何かの参考になったら幸いです。

 

参考文献

所沢市史 地誌』

 

所沢市史調査資料2 地誌資料編1』

 

【マーケットピア】ドン・キホーテ 東所沢店(所沢市上安松)

 

kuruma.nozaki-gyousei.com

 

kaigodb.com

 

smocca.jp

smocca.jp

諏訪畑

諏訪畑は旧久米村(現所沢市大字久米)の小地名で、『所沢市史 地誌』には次の様に書かれています。

◯諏訪畑〔同右〕=長久寺の南東方で、勢揃橋と二瀬橋の間にある「さと橋」付近。狭山の栞によると諏訪神社は明治初年に八幡神社の境内に移された。

所沢市史 地誌』より引用、同右=天保八年久米村書上張

どうやら、勢揃橋と二瀬橋の間にある「さと橋」なる橋の辺りを言ったようです。しかし、恥ずかしながら私はこのさと橋(●●●) がどこにあるのか知らないので、諏訪畑な場所を推測する前にこの橋を探すことにしました。

 勢揃橋と二瀬橋の場所は幸いにも既に知っていたのでそのおよそ真ん中ぐらいで「橋」とGoogle mapで検索してみました。(下リンク)

www.google.co.jp

すると、ちょうど勢揃橋と二瀬橋の間で柳瀬川に架かっている「里橋」という橋が見えます。恐らくこれが『所沢市史 地誌』に見えるさと橋(●●●)だと思われます。また、諏訪畑というのでここには恐らく畑があったと予想できます、ではここには畑があったのか参考として農研機構農業環境変動研究センターの歴史的農業環境閲覧システムでその付近を見てみましょう。(下図)

f:id:satoshin_chimei:20200824160652p:plain

農研機構農業環境変動研究センター

今の里橋付近に直接「畑」や「桑」などの記載はありませんが、他の地点の「桑」と書かれているところと同様の色の範囲があるのでもしかしたら桑畑などがあったのかもしれません。しかし、いずれにせよ大体の位置は推測できました。

 しかし、『所沢市史 地誌』にはもう一つ(少なくとも私が)気になることが書かれています。それは「諏訪神社は明治初年に八幡神社の境内に移された。」というところです。これは即ち今の里橋付近には諏訪神社が建っていたということです。しかしながら、農研機構農業環境変動研究センターの『迅速測図』(上図)にも「諏訪社」などの記載は一切ありません。つまり、この頃には既に八幡神社の境内に移されていた可能性があります。なので、今その名残や痕跡が残っている可能性は低いですがちょっとそのあたりを見て痕跡などがあるか探してみることにしました。

しかし、マスクを着用しその周辺を歩いてみましたが痕跡などは全く分からなく、Google map等で眺めてみてもなにも分かりませんでした。💧何か知っている方は教えて下さい。

 以上のことを簡潔にまとめます。

  • 諏訪畑は今の里橋の近く。
  • 恐らく畑があった。
  • 諏訪神社が近くにあった。
  • 諏訪神社の場所は分からない。

これからも、これ以外にも古い地名や小地名についても調べていきたいと思います。

 

参考文献

所沢市史 地誌』

 

Google map

www.google.co.jp

 

 歴史的農業環境閲覧システム

habs.dc.affrc.go.jp

鋳銭坊

『武蔵野話』の秩父郡黒谷村の節には「鋳銭坊」(ドウセンボウ)という地名が見えます。この秩父郡黒谷村というのは今の埼玉県秩父市黒谷のことですが、「鋳銭坊」そしてその別名として『武蔵野話』で挙げられている「鋳銭沢」という地名を、私の調べた範囲では、見つけることが出来ませんでした。では、今で言うとどのあたりだったのでしょうか。

まず、『武蔵野話』での記述を見てみましょう

「その村中に鋳銭坊(どうせんばう)鋳銭沢とも云 などいふ地名あり、また(ちかき)村に金崎、金沢などいふ地名(ところな)もあれば銅の出し(ところ)此村なるべし。」

『武蔵野話』より抜粋、旧字体新字体へ書き換え

黒谷村(現秩父市黒谷)は今でも和銅遺跡などの遺跡があるようにかつて銅の採れた場所で、そのことが書いてあります。

続いて『新編武蔵風土記稿』を見てましたが、ここには「鋳銭坊」の地名は見られませんでした。しかし、この書の黒谷村の節には「銅洗堀」、「和銅沢」という地名が見られるのでこれらの地名との関係がある可能性があります。

「小名 箕山一作簔山 曽根坂 銅洗堀 上小川 下小川 木毛 下川 中ゾリ」

「サテ其和銅ヲ出セシ地ハ当村ノ箕山ナリトモ云ヘト凡千余ノ星霜ヲ経ヌレハ其所モ定ニ知リカタシ」

「中断セシ所ヲ今ニ和銅沢トヨヘリ」

『新編武蔵風土記稿』より抜粋、旧字体新字体へ書き換え

 このうち「銅洗堀」は「鋳銭坊」に発音が比較的近いのでこの地名について調べてみました。すると、「銅洗堀」という地名はまだ生きているようで、「和銅遺跡」を参考にすると「どうねんぼう」と呼ばれることもあるようであり、恐らくこの周辺が「鋳銭坊」だったのだろう。

今度秩父へ行く機会があったらいって直接みてみたいし、今度は付近の寺院との関係も調べてみたいです。

 

参考文献

『武蔵野話』

dl.ndl.go.jp

『新編武蔵風土記稿』

dl.ndl.go.jp

和銅遺跡」

sirakawa.b.la9.jp

二瀬

埼玉県所沢市松ヶ丘の八国山沿いにある電柱の東電プレートには「二瀬」というものが見えます。この地名はどこから来たのだろうと気になっていますが、どうやら命名基準などは伺っても教えてくれないようなので色々調べてみました。

 

何はともあれ、こういう時はまずはGoogle検索で調べます。

まず、Google Mapで近くに「二瀬」が入る地名などがないか調べました。すると近くに「二瀬橋」という橋と交差点

www.google.com

そして、柳瀬川の別名、もしくは前川と北川の合流した川として「二瀬川」と呼ぶことがあるようです。

https://www.city.higashimurayama.tokyo.jp/tanoshimi/shizen/sanpo/kawa-map.files/25.4.24kawa-map.pdf

恐らくこれが、「二瀬」の由来でしょうが柳瀬川の近くにあるのではなくこのあたりにあります。では何故このあたりだけなのでしょう。『新編武蔵風土記稿』を見てみました。

久米村の部分から抜粋です:

 柳瀬川 西ノ方荒幡村ヨリ入野口村ノ方ヨリ来ル小流ト二瀬合テ流ルヽ故土人二瀬川トモ呼フ

『新編武蔵風土記稿』より抜粋、旧字体新字体へ変換

 ここでは、柳瀬川の別名として二瀬川が紹介されています。更に、久米村以外での柳瀬川の部分を見てみました。

 すると柳瀬川の別名としての二瀬川は出てきませんでした。ただし、久米川村には二瀬川という川の名前がありました。

まとめると私の調べた範囲ですが、柳瀬川の別名として二瀬川を出しているのは久米村だけでした。とすると、所沢市松が丘は元々は所沢市大字久米であったので、これが由来の可能性があります。

以上のことを箇条書きにまとめると次の様になります。

  • 二瀬の近くには「二瀬川」や「二瀬橋」など「二瀬」の付く地名がある。
  • 『新編武蔵風土記稿』では柳瀬川の別名として二瀬川があるのは、私の調べた限り、久米村だけ。

つまり、柳瀬川の別名である二瀬川が由来の可能性があるようですね。しかし、実際にはどうか分かりません。ですが、勝手に東電プレートを眺めて由来を考えたりするのは楽しかったので機会があったらまたやろうと思います。

参考文献

『新編武蔵風土記稿』

dl.ndl.go.jp

dl.ndl.go.jp

「東村山川マップ」『歴史館だより第30号』

https://www.city.higashimurayama.tokyo.jp/tanoshimi/shizen/sanpo/kawa-map.files/25.4.24kawa-map.pdf